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龍馬歴史館|高知県、創造広場アクトランド内で坂本龍馬の名シーンを蝋人形で表現!

創造広場アクトランド|高知県香南市|坂本龍馬歴史館
おでかけぶろぐ管理人lago
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高知県香南市にある「龍馬歴史館」。テーマパークの創造広場アクトランド内にある人気スポットです。120体以上のリアルな蝋人形で、33年間の龍馬の人生を再現。幕末、龍馬ファンに特にオススメのスポットです!

【龍馬歴史館について】

高知県香南市にある「創造広場アクトランド」内にある「龍馬歴史館」。1988年からある人気スポットで、坂本龍馬の濃厚な33年間の生涯を再現!歴史的名シーンを、蝋人形制作において世界的に有名な芸術家「林健成」が見事に表現しています。

「創造広場アクトランド」内には子供が楽しめる遊具や様々な施設が並んでいますが、この記事では「龍馬歴史館」に特化してご紹介していきます。

創造広場アクトランド|高知県香南市|坂本龍馬歴史館

【入館料】

「龍馬歴史館」の入館料は大人1,500円、小学生から高校生は800円。

創造広場アクトランドは無料駐車場完備で、営業時間は10時~18時。入館チケットは17時半まで販売されています。

【龍馬劇場の流れ】

では、龍馬歴史館に入りましょう!

龍馬歴史館|創造広場アクトランド|高知県香南市

【建依別に男ありき】

軍艦「ユニオン号」を背にする、坂本龍馬と中岡慎太郎。

【長宗我部から山内へ】

土佐の長宗我部元親は1585年に四国を平定。後に豊臣秀吉の軍門に下り、土佐一国に。

土佐国主の長宗我部は関ケ原の合戦に敗れ、徳川家康は掛川の山内一豊に土佐一国を与えた。その後、武士の身分でも山内方は上士と呼ばれ、長宗我部方は下士として幕末まで身分差別があったようです。

【富豪才谷屋】

1666年11月、龍馬の先祖が初代才谷屋を開業。

酒造、醤油、古鉄、呉服などを扱い豪商に成長。

【龍馬誕生】

1835年11月15日、郷士坂本家3代目八平直足の次男として、上町本町(現在の高知市上町1丁目)で龍馬は生まれました。

母の幸が、「龍が天に昇り、馬が胎内に入る」夢を見て産気づいたことから「龍馬」と命名されたようです。

龍馬には22歳の年齢差がある兄(長男)権平、長女の千鶴、次女の栄、三女の乙女がいました。

【落ちこぼれ龍馬】

1846年12月、寺子屋に通い始めた龍馬でしたが、上士の子と喧嘩し退塾してしまいます。

この時の龍馬は12歳。物覚えが悪く、塾の子供たちからは馬鹿にされ、落ちこぼれの泣き虫だったと言われています。

【野市の志士たち】

儒学者である竹村東野と門弟。

竹村東野の門弟、大石弥太郎、森新太郎、新宮馬之助、大石団蔵。

【鏡川での水練】

男勝りの龍馬の姉、乙女が母親代わりとなり、気が弱く泣き虫の龍馬を厳しく教育。

泳げない龍馬を鏡川に連れて行き、竹竿の先に結んだ縄を龍馬の体に括り付け、水泳の訓練をさせたようです。

【土佐の偉人たち】

龍馬が生まれた時代の前後、幕末の日本を背負って立った偉人。

ジョン万次郎、田中光顕、中岡慎太郎、後藤象二郎、吉村虎太郎。

【江戸で剣術修行】

1848年、龍馬は14歳で小栗流の日根野弁治道場に入門。

1853年3月、「小栗流和兵法事目録」を授けられた龍馬は江戸へと旅立ち、新たな剣術修行に。1858年には師匠の千葉定吉から「北辰一刀流長刀兵法目録」を授かっています。

【時局開眼】

1854年、龍馬20歳。一旦剣術修行を終え土佐に戻った龍馬は、知識人で日本画家の河田小龍を訪ねる。

1855年に龍馬の父、八平が他界。龍馬は河田小龍から海外事情などを学んだ。

【土佐勤王党の結成】

1861年9月、龍馬27歳。尊王攘夷を掲げ、武市半平太が結成した「土佐勤王党」の連半状の9番目に署名血判。

土佐勤王党の最終血判者は192名いたとされていますが、そのほとんどが下士で占められ上士はわずか2名だけだったようです。

【姉・栄の自刃】

1862年3月24日、時勢を察知した龍馬は、藩の絆にこだわる「土佐勤王党」と決別し、土佐藩を脱藩。

当時、脱藩者は死罪で家族や親類まで罪に問われた。龍馬の姉、栄は家伝の刀「備前忠廣」を授け、龍馬は脱藩を果たした。だが、栄はその責任を取り、その夜のうちに自害する。

【吉田東洋暗殺】

1862年4月8日、土佐勤王党の刺客が開国政策を推進する吉田東洋を暗殺。龍馬脱藩の15日後のことであった。

吉田東洋は前藩主の山内容堂の信任が厚く、若い新藩主を支えていた。また、吉田東洋が主宰する鶴田塾の門弟には、後藤象二郎、板垣退助、岩崎弥太郎などがいたとされています。

【勝海舟と出会う】

1862年10月、龍馬28歳。脱藩した龍馬は各地を巡り、1862年8月22日から江戸の千葉道場に身を寄せた。

龍馬は開国論者である勝海舟を斬る覚悟で訪れるも、実体験に基づく世界情勢や海軍の必要性を説かれ、その人間性と共に感服。一転その場で海舟に弟子入りした。龍馬生涯の師と運命の出会いであった。その後、海舟は山内容堂に取り成し、1863年2月25に龍馬の脱藩の罪は放免に。

【人斬り以蔵】

土佐勤王党の岡田以蔵は人斬りの異名をもち、暗殺を繰り返していた。

以蔵の剣才を見込んだ龍馬は、師匠である勝海舟の護衛をさせ、京都にて以蔵は勝海舟を刺客から守り抜いています。ただ、行状の悪さから土佐勤王党の同志から見放され無宿者に転落。強盗の罪で捕まり、1864年6月に土佐で拷問されると泣きながら今まで暗殺に関与した同志の名を次々と自供。これにより逮捕者が続出し、土佐勤王党が崩壊するきっかけに。1865年5月11日に打ち首、享年28歳となっています。

【武市半平太投獄】

土佐勤王党を結成した武市半平太も投獄されたが、上士格なので拷問は受けず。吉田東洋の義甥らの厳しい取り調べにも屈せず、これ以上同志の逮捕者が増えないよう東洋暗殺容疑を否認し続けた。

獄中で1年8ケ月耐えた1865年5月11日、業を煮やした山内容堂は「主君に対する不敬行為」とし、武市半平太に切腹を命じます。享年37歳、土佐勤王党は事実上解散となり、それぞれの道を歩んだようです。

【亀山社中の創設】

1865年、龍馬31歳。長崎大浦のグラバー商会との大型案件を成立させ、薩摩と長州の懸け橋に。日本最初の商社といわれる「亀山社中」が誕生した瞬間でした。「亀山社中」とは、龍馬がはじめに拠点とした土地「亀山」と仲間の意味を持つ「社中」を併せたようです。

1866年には長州藩のために薩摩藩名義で、イギリスから軍艦ユニオン号を導入。小銃の購入や運搬に成功し、薩長同盟締結へと繋がっていきます。

【薩長同盟の成立】

公武合体派(朝廷と幕府が協力して政治を行う方針)の薩摩と尊王攘夷派(朝廷尊重)の長州は相反する立場で、敵対関係に陥っていました。1865年5月から中岡慎太郎らと両藩の根回しに奔走、交渉は難航していました。

1866年1月21日、龍馬32歳。提携交渉が進まない、薩摩の西郷隆盛と長州の桂小五郎を説得し、協力関係の盟約締結を実現!

【寺田屋事件】

薩長同盟直後の1866年1月24日、京都伏見の旅館 寺田屋にて龍馬が襲撃される。

風呂場でいち早く気づいたお龍は、裸のまま裏階段で2階に上がり龍馬らに危機を知らせ、龍馬は両手を負傷するも九死に一生を得た。

【新選組の台頭】

1862年、幕府は治安維持のために京都守護職を新設。1863年には浪士、町人、農民らで非正規の武装警察「新選組」が結成。

1864年7月8日、旅籠 池田屋に潜伏していた長州藩、土佐藩などの尊王攘夷派 志士を襲撃。新選組の名を世に知らしめた。

【龍馬結婚】

寺田屋事件で龍馬をかくまった龍。協力して危機を乗り越えた2人へ。

中岡慎太郎や西郷隆盛の晩酌で結婚したとする説に裏付けはないようですが、龍馬歴史館から結婚式のプレゼントとされています。素敵な光景ですね!

【日本初の新婚旅行】

1866年2月29日、龍馬32歳、龍26歳。京都から鹿児島に向かって出発。

1866年3月10日、鹿児島に到着した龍馬と龍は、塩浸温泉へ。2人は、釣りや高千穂峰(たかちほのみね)の登山などを楽しんだようです。龍馬と龍が仲睦まじく過ごしたのはこの時期だけで、後に日本初の新婚旅行と呼ばれるように。

鹿児島で3ケ月間の蜜月を過ごした2人は6月4日、長崎へ。龍は長崎に残り、龍馬は軍艦ユニオン号に乗り下関に向かう。6月16日、下関に着いた龍馬は亀山社中を率い、長州の高杉晋作と共に幕府軍と戦うのであった。

【清風亭の会談】

1867年1月13日、龍馬33歳。長崎の料亭「清風亭」で、土佐藩の後藤象二郎と会談。

のちに海軍、貿易、商社としても活動する「海援隊」が誕生することに。

【船中八策】

いよいよクライマックス!大政奉還の元となる「船中八策」です!龍馬歴史館、龍馬劇場1番の見せ場で、坂本龍馬が語りはじめます!ここまで時代を越え、まるで自分もその場にいるかのように龍馬の人生を観てきました。ここは目と耳と肌でじっくりと龍馬の語りを体感しましょう!

1867年6月9日、土佐藩船 夕顔丸で長崎を出航。船中、坂本龍馬が新しい国家体制について、後藤象二郎らにその構想を示していきます。

龍馬の名言「日本を今一度 洗濯いたし申候!」。国の為ではなく、己の欲を優先する役人が増え日本は衰退している。その元凶は幕府にあり、払拭して本来の日本を取り戻そう!という意味が込められています。

他にも商売人としてもセンスが光っていた龍馬の名言に、「お金よりも大事なのは評判。世間で大仕事をなすのに、これほど大事なものはない。お金なんぞは、評判のあるところに自然と集まってくるものである

何でも思い切ってやってみることですよ。どっちに転んでも人間は骨となり一生を終えるんじゃけん。どうなるのか色々考えて行動に移せないのは、限りある人生で勿体ないですよ。まずは決断して、何でも思い切ってやりましょう!このあたりの言葉は、今もなお生きていますね!

【大政奉還】

1867年10月13日、龍馬33歳。徳川幕府15代将軍であった徳川慶喜が大政奉還。

朝廷に「統治権を返上」しました。

【近江屋の惨劇】

1867年11月15日、京都河原町の近江屋で中岡慎太郎と過ごしていた龍馬。

京都での定宿を依然襲われた旅館 寺田屋から近江屋に変えていました。

21時に十津川郷士を名乗る数名の刺客が現れ、取次に出た下僕の藤吉を斬りつけました。龍馬は土佐弁で「ほだえな」(騒ぐな)と声をかけたところ、1人は中岡慎太郎を斬り、もう1人は龍馬の頭部を斬るなど三太刀で絶命。刺客に襲われた龍馬は33年の生涯を閉じました。奇しくも11月15日は龍馬の誕生日であり、命日ともなりました。龍馬の暗殺を命じた黒幕は、未だわかっていません。

1867年12月9日、幕府の廃止と新政府の樹立が決定されるのでありました。

【時代を越えて】

最後に回想シーンとして、時代を越えて坂本龍馬、中岡慎太郎、岩崎弥太郎と歴史小説家の司馬遼太郎が対談しています。1962年に司馬遼太郎が歴史小説「竜馬がゆく」の連載を開始。それ以降、NHKで大河ドラマ化され、今もなお龍馬精神は語り継がれています。

龍馬の33年の人生は、後世に語り継がれ、多くの人々の心の中で今も生き続けています。

【龍馬有縁資料館】

龍馬歴史館は終わりかと思いきや、龍馬有縁資料館に続いてます!

坂本龍馬に関する様々な史料が並んでいます。

坂本龍馬とふれあいコーナー。龍馬が語り始めたり、記念撮影もできます!

龍馬歴史館|創造広場アクトランド|高知県香南市

オリジナル絵馬があったりいろいろ!

龍馬歴史館を出るとレインボーショップに繋がっています。

龍馬に関する観光名所などを紹介するパンフレットなども並んでいます!

【創造広場アクトランド】

龍馬歴史館がある創造広場アクトランドには、子供も楽しめる遊具や様々な施設があります。

創造広場アクトランド|高知県香南市

【龍馬歴史館 基本情報】

住所高知県香南市野市町大谷928-1 創造広場アクトランド内
電話0887-56-1501
開館時間10:00~18:00(最終入館時間17:30)
定休日無休
料金大人1,500円、小学生~高校生800円※他にフリーパスポートあり
駐車場無料 完備
HP龍馬歴史館 公式サイト
※情報は変わる場合がありますので、HP等でご確認下さい。

【地図】

【まとめ】

坂本龍馬の濃厚な33年間の生涯を蝋人形で再現。龍馬の人生を観て、時代の変化を感じると共に、世の中を良くする為には何が必要か、龍馬は今も私たちに語りかけているように感じます。最後までご覧いただきありがとうございます。下記に周辺のスポットや関連情報がございますので、ご参考下さい。

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